平安時代後期(1183年)に、玉島柏島と乙島の間の沖で行われた源氏と平氏の海戦。
戦さの最中に皆既日食が起こった世界的にも珍しい戦いであり、なおかつ源平合戦における平氏が唯一勝利した戦いであった。
とき:1183年閏10月1日
場所:備中国水島(現在の倉敷市玉島柏島及び乙島付近)
源氏方
兵 力:5千余 船1百艘
本 陣:倉敷市玉島乙島(現 常照院)
武 将:足利義清(戦死)、足利義長(戦死)、海野幸広(戦死)
高梨高信(戦死)、高梨高直(生還)、仁科盛宗(不明)
損 害:1千2百以上
平氏方
兵 力:7千余 船2百艘
本 陣:倉敷市玉島柏島(現 森本松山城跡)
武 将:平 重衡(生還)、平 通盛(生還)、平 教経(生還)
平 盛嗣(生還)、藤原忠清(生還)、藤原景家(生還)
村田盛房(戦死?負傷?)
損 害:不明(軽微)
京を占領した源義仲は、屋島に落ちていった平家一門を討伐するため、足利義清及び宇野行広(海野幸広)を大将にして軍を発進させた。
対する平家も、2百艘の船に兵7千を乗せて、備中水島まで迎撃に出た。
源氏は一部の兵船をもって、平家の陣のある柏島の城を強襲する作戦を立て、対する平家は、源氏をおびきよせ、その後包囲殲滅させる作戦を立てた。
かくして、両軍1万余が鬨の声をあげてぶつかり合った。源氏方は2千の兵を持って、柏島の東北の木戸口を猛攻した。平家はその勢いに押された形で、偽って退却し、源氏が深入りしたところを城と船の3方向から包み込んで攻撃し、源氏方に大打撃を与えた。そのうちに、皆既日食が始まり、空は闇夜のようになった。あらかじめ知っていた平家に動揺はなかったが、源氏は大いに混乱した。そのため、平家の攻撃が勢いづき、源氏の大将・源義清や海野幸広ら名のある武将が討ち取られた。その後も、馬を船に乗せていた平家の軍は追撃に追撃を重ね、実に千2百の首級を得た。
源平合戦における平家の唯一の勝利はこうして行われた。
この源平水島合戦は、「平家物語」や「源平盛衰記」など第1級歴史書に載っている。だが、それぞれの書物に多少の相違がある。
ここでは、合戦の描写などの詳しい「源平盛衰記」を元に話をすすめていく。
「完訳 源平盛衰記 岸睦子訳」から水島合戦の模様を引用。
ただ直訳に近いので、少しわかりにくい部分も。
以下、訳。
平家は讃岐国屋島にありながら、山陽道の武士を味方につけて都へ攻め上ろうとしているとの情報を聞いた木曽左馬頭義仲は、信濃国(長野県)の住人矢田判宮代義清と宇野平四郎行広を遣わして、山陽道の者たちを多く源氏に従わせた。
平家は三百余艘の兵船を組んで、屋島の磯に漕ぎ出した・源氏は備中国(岡山県)水島に陣をはり、千余艘の兵船をかまえた。源平はたがいに海をへだてて対峙した。
寿永二年(一一八三)閏十月一日、水島で源氏と平家とが戦おうとした。
源氏はこう作戦を定めた。「この島の南の地から、島の北の端まで三町にも満たない。島の東の海上から攻め寄せ、島の北の船を陸まで組み合わせて、軍兵が暇を惜しんで攻めかかれば、先陣に進んだ者で敵に討ちとられる者は、多くはあるまい。後続の兵が続いて島の上へ攻め入って城に火をつければ、敵はあらそって逃れ船へ乗ろうとしよう。刀や槍の心得のある者たちは、続いて乗り移って打ちとれ。島を攻め落されてしまえば、船の寄港するところがなくて、どうして海上で暮すことができようか。浪にひかれ、風に従って漂うところを、浦という浦、渚という渚まで追いつめ追いつめて、討ちとろう」
平家の作戦はこうである。「船をば島の西南につけて、城の東北の木戸口を開き、高名をたてようとして兵が進み敵を招けば、舟をならべて攻め寄せよ。偽って退けば、島の上へ襲いかかろう。そのとき舟を島の東北へ廻して、三方から矢先を揃えて射とめよ。敵が堪えられず後退したら、舟をならべて乗り移り、その船を分捕りにせよ」
源氏の追手(表門)の大将軍は宇野弥平四郎行広、搦手(裏門)の大将軍は足利矢田判官義清だった。
五千余人の兵たちが百余艘の兵船に乗り、とも綱解いて出航し夜の明けそめに敵の船に漕ぎ寄せて鬨の声をあげた。平家は待ちうけていたので、声を合わせて戦った。
両軍の軍兵は一万余人。関の声が海上に響き合って、寄せ来る波の音も、声を合わせたように思われた。
平家は本三位中将重衡と越前三位通盛を大将軍として七千余人が二百艘の兵船に乗って、島の西南から東北へ二手に分れてさし廻した。源氏の兵船はかねての作戦の通り、南の地から北の際までさし並べて。当国の兵とを先に立てで二千余人が、冑をかたむけ鎧の袖を振りあわせて一線に並んで攻め寄せた。
平家はこれを見て、城の東北の木戸口を開いた。能登守教経は紺に白い糸で群千鳥を縫った直垂に、紅おどしの鎧を着し、長覆輪(鞘の刃や峯の部分を金銀でおおい飾ったもの)の大刀を腰につけていた。越中次郎兵衛盛嗣は、滋目結(一面に鹿の子絞り)の直垂に、耳坐滋(鎧のおどしの上部は薄く、下部を濃くしたもの)の鎧を着ていた。上総五郎兵衛忠清は縫摺(藍摺の糸で縫った)直衣に赤糸おどし、肩白の鎧を着していた。飛騨三郎兵衛景家は濃藍の直衣に、別布で作前襟(おくみ)と端袖に赤地の錦を入れたものに、黒糸おどしの鎧を着ていた。鎧の毛、直垂の色、いずれも色とりどりで、華やかに見えた。
このほか村田兵衛盛房や源八馬允番をはじめとして、名の知られた勇士三十余人が進んで敵を引き寄せると、矢田判宮代義清や仁科次郎盛宗、高梨六郎高直、海野平四郎幸広をはじめとして、三百余人が木戸口へ攻め寄せて戦った。
そうするうちに、平氏は偽って後退した。源氏は勝ちに乗って攻め掛った。ここに島の両方の船団が、南の沖、西の島先から寄せて来て、敵の舟を打縊(長い竿の先に曲ったかぎをつけたもの)でかき寄せ一団となって敵舟に乗り移った。平家方ではすぐれた射手をそろえて城中と両方の船から続けざまに矢を射た。これにたえ切れず、源氏の船は後退した。 西風がはげしく吹く中で、船人ともにゆられての戦いだった。
東国北国の兵たちは、舟軍の経験が薄く、船の甲板に立ちえず、船底にのみ重なるように入っていた。一方平家の兵たちは、自由自在に舟軍できたので、入り乱れて敵をさんざんに切った。敵方で面と向って戦って来る者は少なかった。舟端に近づいて来る者をつかまえては海へ入れ、舟底にある者は鎧の袖をつかんで首を切った.
城の中では勝ち鼓を打って気勢をあげていると、空がにわかに曇って日の光も見えず、闇の夜のようになったが、源氏の兵たちはそれを日蝕とも知らず、そうでなくとも東西の方角を失って舟を後退させ、いずこへともなく風に従って逃げて行った.平家の兵たちはかねて日蝕を知っているので、ますます闇を利用してくり返し攻め寄せた。
矢田判官代義清は、船にゆられて立っておることができずに、船端に尻をかけて冑をぬぎ捨てて太刀を抜いて戦った。越中次郎兵衛盛嗣はこれを見て冑を傾けて打ってかかると、義清は立ち上って冑の鉢をうった。その力が強くて、冑がぬげて下に落ちた。盛嗣は目がくらんで、太刀がどこを打ったのか分からなかったが切り損じると、義清は右の顔を斜めにして押付の板に切りつけ、盛嗣がうつぶせに伏すのを仰むけにして首を切った。
海野四郎幸広は村田兵衛盛房と船端で取組んで海に入ったのを飛騨三郎兵衛景家は見ていた。盛房が幸広の鎧の背面の太い紐をつかんで引き返してだきついたところを、景家は大力だった、両人を一緒につかんで船上に投げ入れた。と、幸広の刀を抜いて盛房が起き上ろうとするのを足で踏んで、鎧の草摺(銅の下に垂れた板)を引き上げて刺した。景家はこれを見ると、幸広を冑のまま仰むけに倒して首を切った。
能登守教経はすぐれた武士で、弓の名手だったので、一本も無駄矢がなかった。高梨次郎高信をはじめとして、十三人が討ちとられた。
源氏の軍勢か敗れたので、生き残った者たちは小舟に乗り移り、ちりぢりに落ちのびて行くのを平家方は船の中にかねてから鞍置馬を用意しておいて、船々をつなぎ止めている綱を切り放して渚に漕ぎ寄せ、船腹を斜めにして馬をおろすや飛び乗り、能登守が真先に進んで攻め寄せれば、討たれる者が多くて助かる者が少なかった。あるいは備前国(岡山県)へ落ちのびる者もあり、あるいは都へ上る者もあった。
海へ入って死する者はその数を知らず、船で討ち捕えられた源氏方は、矢田、高梨、海野をはじめとして千二百人が首を切られて人目にさらされた。
平成24年5月21日に岡山でも部分日食が見られたのを受け、平家方の陣跡とされる倉敷市玉島柏島の水島古戦場記念碑前で部分日食を観察する様子が山陽新聞に掲載された。
源平水島合戦を、歴史小説風に書いてみました^^v
義仲はあせっていた。
京を制したはいいものの、京での部下の狼藉による人気の低下、鎌倉での頼朝の躍進、さらに平家の西国での勢力回復、など、問題が山積みになっていた。
先日、後白河法皇からも
「まだまだ天下は治まっておらぬ。平家のものどもも、京から去ったとはいえ西国で虎視眈々と政権を狙っているではないか。ただちに西下して、平家を討ってまいれ。」
と言われている。
いかがしたものか側近を集めて協議をした。
義仲四天王・樋口兼光は、
「現状で西下しても武具兵糧も乏しく、また、兵も統制をとれておりませぬため自重されるが得策かと。」
と慎重論を述べたが、 同四天王・今井兼平は
「そんなことは百も承知でござる。今のままこの京に留まっていても内部より崩壊するのは明らか。ここは直ちに播磨まで出、さらに屋島まで進み平家に痛撃を与えることしか活路はございませんぞ。」
と積極論で応戦した。
協議は主戦派の今井と、自重派の樋口と意見がわかれた。
静かに両派の言い分を聞いていたが、義仲の腹は決まった。
「よし、後白河法皇の命を受けたという名目で、これより西下して平家を討つ。兼平、直ちに兵の編成に入れ。」
「ははっ。」
「そして、兼光。」
「はっ。」
樋口が平伏した。
「そちは一部隊を率いて、行家殿(頼朝の叔父)と京に残れ。後は頼んだぞ。」
「ははっ。」
かくして、義仲は播磨まで軍勢を発するため京を出発した。
しかし、京を出発する時に見送りに出てきた京衆はわずかな人数だけだった。
あの初めて入京した時の勢威はなんだったのか。
義仲の声望が落ちていたのも確かだったが、今鎌倉にいる頼朝の方に勢いがあると京の民衆はそのするどい嗅覚で感じ取っていたのであった。
常に、時代に翻弄される京衆の変わり身は早い。
義仲は、くやしいやらなさけないやらの気持ちになり、馬上で
「くそっ!」
と大声を上げた。
馬廻りの楯親忠がおどろいて駆け寄ってきたが、義仲は
「なんでもない。」
と努めて笑顔を装い、馬を駆けさせた。
義仲とその軍勢約1万騎は播磨に入り、かつての平家の都だった福原から、船で直接今の根拠地の屋島を突こうかとも考えていたが、その道中で情報がもたらされた。
「平家の兵艘2百余艘が備中方面に向かっている。」
との報だった。
全軍で備中まで進撃し、その平家を壊滅させてしまえば戦局は有利になる。
軍議を起こした。
「先ほど平氏の兵船2百が備中方面に向かっているとの報が入った。ただちに兵を発し、これを撃破する必要があるがいかがしたものか。」
「おそれながら申し上げます。」
大柄な男が立ち上がった。
足利義清(矢田判官代)だった。
義清の父・義康は源義家の孫にあたり、源氏一門衆の中でも嫡流に近い。
このたびの義仲の挙兵にも当初より参加して信濃衆の主力を率い、義仲軍の精鋭と言ってよかった。
「おお、判官代。そちが行ってくれるか。」
「左様。ここで平氏を壊滅させ、二度と東上出来ぬようにしてご覧にいれましょう。」
「これは頼もしい。兵はいかほど連れていくか。」
「軟弱な平家のこと。半分の兵船百艘と兵3千で充分でござる。」
半数という言葉に義仲は迷った。
多数で少数を討つ、というのは軍略の基本ではある。
だが、やはり義仲にも倶利伽羅峠の戦いから、少数の軍で多数の平家の軍を討ってきたためおごりがあった。
「その言やよし。ただちに兵を編成するゆえ、朗報をまっておるぞ。」
「おまかせくだされ。」
義仲は、義清の手勢では3千に達しないため、四天王・根井行親の子の海野幸広、信濃の土豪・高梨高直、高信、仁科盛宗らの精鋭をつけて送り出した。
義清の軍勢は、ゆるゆると山陽道を下っていくうちに、当地の地侍などが三々五々集まって来、備前に入るころには兵は5千に達していた。
これには、義清も機嫌をよくし
「はっは。さすがにみなの衆は源氏の強さを知っておる。平家などきらびやかな装束をつけているだけの、腰抜け武士よ。おそるるに足らず。」
となど、廻りの側近に言っていた。
主力もほとんどが信濃の山育ちの荒武者のため、すでに敵をのんでいて
「平家何するものぞ。」
と、すでに勝ったような騒ぎだった。
ただ、参謀格の高梨高直は、
「兵力では当方の方が劣る上、慣れぬ水戦の可能性もあるため準備は怠りなきよう。」
と釘をさしていた。
義清も凡将ではない。
「わかっておる。水戦になった時のことも考えておる。」
と、一応の青写真は描いていた。
備前の藤戸まで来た時、
「平家の兵船数百が、備中水島まで向かっている。」
との情報が入った。
「すわ、そこが戦場だ。」
と直感した義清は、
「敵は、この先の水島まで向かっている。われらも急ぎかの地まで行くぞ。続け!」
と号令をかけ、兵船百艘に兵を満載させ、備中水島まで向かった。
対する平家は、清盛の五男・重衡、甥・通盛を両大将として、公称千艘の兵船を率いて、水島の柏島まで押し出していた。
この柏島付近は、備中の南の玄関口に位置し、島の中央には城も築かれていた。
重衡は、
「京では不覚を取ったが、わが水軍が敗れたわけではない。ここで源氏に反撃をし、一気に京を取り戻すべし。」
と、手ぐすね引いて源氏の軍勢を待ち構えていた。
平家より遅れること1日にして、源氏の軍勢も水島についた。
源氏方が陣を築いたのは、柏島の東に当たる乙島であった。
ここから、平家の本陣の柏島がよく見える。
そこで、義清は軍議を開いた。
「皆の者。平家はここで決戦しようと多くの兵を率いてきた。あの船の数を見る限り、われらより兵数は多いだろう。」
事実、平家の兵船は柏島の西南付近に密集していて、源氏方の2倍はあるかと思われた。
みな一様に硬い顔をしている。
「しかし、平氏の弱兵とわが源氏の強兵と比べ、この程度の兵力差など、あってないようなものじゃ。かくなる上は全軍突撃して、平氏を粉砕せんものとするが、作戦の方はいかがするか。」
義清は大将とはいえども、「連合部隊の長」という立場のため、絶対的な指揮権はない。
さらに、万一負けた場合にも、責任を一身に背負う危険性も減る。
そのため、諸将に意見を募った。
高梨高信が立ち上がった。
「われらは兵数に劣るため、包囲して敵を打ち破るのは困難と思われる。ここは、兵力を一極集中させ、錐のように敵本陣を突き破れば、敵は混乱して、殲滅するのも容易と思われます。」
いかにも、野戦的な作戦だった。
こちらが精鋭の騎馬隊だったならそれが最善の作戦だったであろう。
仁科盛宗らが賛同したが、義清は腕組みのまま微動だにしない。
続いて、海野幸広が
「どうだろう。平氏は陸での戦は弱いが水戦は手強いと心得る。ここは、当方より2千ほどの精鋭を繰り出し、敵の島の北側から上陸し、あの山上にある城を強襲し、焼き尽くすのはどうであろうか。島さえ占領してしまえば、平家も行くところを失い、統制のとれないうちに討ち取るのもたやすくなるであろう。」
と発案した。
この発言に、高梨らはあまりいい顔をしなかったが、賛成する諸将は多く、義清は、
「幸広が作戦良し。わが勢は、かの作戦により平家と決戦する。皆の者励めや!」
と、会を締めた。
一方、平家の方でも、作戦が練られていた。
こちらは源氏よりもさらに巧妙で、兵数に勝るため、源氏の兵船を偽退却により島までおびき寄せて、城と船2方向の3方向から、包囲殲滅させる作戦をたてた。
重衡は、
「この作戦では、今まで我が方が連敗しているとはいえ、よもや敗れることはあるまい。」
とかたわらの通盛に言うと、通盛は不敵な笑みをうかべ、
「ふふ。作戦もさることながら、明日には源氏の猿どもなどが思いもよらぬことが起こることが、陰陽師の安倍泰親殿からの報告にありますからな。」
「ほっほ。おそらく源氏どもは肝をつぶすであろう。」
「さようでござるな。」
と、2人で顔を見合わせて笑った。
時は1183年、鎌倉幕府が開かれる9年前の閏10月1日、源氏の総勢5千は百艘の船に分乗し、鬨の声を上げて平家の軍勢7千に突撃を開始した。
対する平家の軍勢も負けじと鬨の声を上げて迎え撃ち、両軍の戦闘が開始された。
源氏は予定通り、義清を始め主立つもの2千で柏島の北の城に通じる木戸口を激しく攻め立てた。
対する平家の軍勢は、平家の豪勇・平教経、平盛嗣らがきらびやかな衣装を身にまといながら兵を下知し迎え撃った。
村田盛房や、源八馬允番などの勇士が30名ほどで最前線をささえていたが、支えきれずに後退した。
しかし、これは平家が当初立てた作戦通りであった。
「それっ、敵は崩れたったぞ。皆の者かかれっ。」
と義清や海野ら3百名が木戸口の敵を追い散らし、まさに上陸しようとした時、城から規則正しい戦鼓とともに
「わあっ」
という武者の声があがった。
義清は振り返った。
そこにある風景は、南と北からの平家の大船団が押し寄せてくるものだった。
「くっ。ここはひとまず退け!」
と左右をかえりみて絶叫したが、飛来する矢によって、すでに廻りの兵はバタバタと倒れ始めている。
源氏軍は、兵船を慌てて反転させて東に逃れようとするも、折からの強い西風によりうまく操作できない。
その間にも平家の軍船はみるみる距離を詰めてくる。
「くそっ。なぜ、平家はこの風の中あんなに軽々と移動できるのだ。」
義清はうめいた。
意外にも冷静に敵船を観察していたのが、弟の義長だった。
「兄上。どうやら、平家の軍船は太い綱で各船を結んでおり、それでこの風の中でも波にもまれることなく進退できるようでござる。」
「そうか。さすがに平家にも智者がいるものよ。」
義清は、「ふぅ」とためいきをつき、敗北者の顔立ちになった。
しかし、義長は違った。
「兄上。何も気を落とす必要はござらん。兄上は唐の三国志という書物を読んだことがござるか。」
回りに飛来する矢を避けながら、義長は義清に大声で話しかけている。
義清は、早く陣形を立て直したい。
次第に冷静な口ぶりの義長に腹が立ってきた。
「義長、何がいいたい。早く言え。」
「はい。その三国志という書物で、魏という国が呉という国を水戦で攻めた時、今の平家の軍船のように綱でつなぎ合わせて攻め寄せてきたそうです。」
「それでどうした?」
そうこう言っている間にも、音を立てて降ってくる矢は数えきれない。
「その魏の兵船を打ち破ったのは諸葛孔明という軍師で、船が動かないことを利用して、火計を行い、完膚なきまで殲滅させたそうです。」
ここで義清もわかった。
「そうか、火か。」
「さようでござる。」
ここで義清は叫んだ。
「動けるものはただちに火矢を持ち、五月雨のごとく平家の兵船に射掛けよ。」
船の奥に下がっていた源氏の精鋭は甲板に躍り出て、これでもか、とばかりに火矢を放った。
バラバラと火矢は飛んでいくものの、平家の船には達しない。
第2波、第3波と放ったが、結果は同じだった。
風下の源氏の火矢が風上の平氏の船まで届かないのは当然だった。
義長は、
「やはり、私は諸葛孔明ではありませんな。」
と力なく笑い、
「それなら源氏の名誉にかけて一人でも多くの平家の者どもを討ち取りましょう。」
「おお。望むところよ。」
兄弟は揃って吠えた。
一旦反転した義清とその直属の兵船は、波に揺られながらも何とか体制を立て直し、平氏に反撃を開始した。
しかし他の兵船は、船に慣れぬ山育ちのものばかりで、甲板に立つこともできずに、右往左往するばかりだった。
そんな折、それまで快晴だった空がみるみるうちに暗くなってきた。
日食が始まったのである。
源氏方は、最初は夕立かと思ったが、雲一つない空であり、夕立にしては暗すぎる。
義清も
「なんだ、これは・・・」
と蒼ざめた顔で左右に聞いたが、誰も知らない。
源氏の軍勢は、この闇夜のような空模様に一様に肝をつぶし、ひたすら念仏を唱えるものや、狼狽してわけもわからず叫ぶものなど、収拾のつかぬ有様となった。
対する平家の軍勢は落ち着いたものである。
今日、日食が起こり「闇夜のごとくなる。」ということは通衡から全軍に聞かされていたからであった。
「それっ。今こそ全軍押し出し、源氏の軍勢を殲滅させる時ぞ。者どもかかれぇ。」
と、戦鼓が激しく乱打され、全軍が火の玉のように突撃を開始した。
源氏の兵船のうち、真っ先に後軍が後退し、乙島も放棄してさらに児島方面まで逃げていった。
そのため、先に突出した2千の軍勢は取り残される形となり、周囲から散々に攻め立てられた。
義清の軍船は、敵の真っただ中に残されてしまい、周囲から猛攻を受けた。
義清は、何度か乗り込んできた平家の勇士を死力を振り絞って撃退してきたが、慣れぬ舟戦のため、ついに体を支えきれなくなって尻餅をつき、兜をかぶっていることもできなくなった。
そこへ、
「われこそは越中次郎兵衛盛嗣なり。そちらは源氏の大将・矢田判官代義清殿と承る。いざ参る。」
と平盛嗣が、義清の軍船に乗り移ってきた。
「これはよき敵。推参なり。」
義清は迎え撃った。
最初に仕掛けたのは盛嗣であった。
乗り移るやいなや、真っ向から斬りつけた。
義清はこれをかわし、大太刀を上段にかまえて力いっぱい振り下ろした。
その力はすさまじく、盛嗣はなんとか受け止めたが、その衝撃により兜は脱げ落ち、目もくらんでしまった。
― 殺られる ― と盛嗣は思った。
せめて一太刀だけは、と平衡感覚を失いながらもやみくもに刀を振り下げた。
思わぬ手ごたえがあった。
兜を脱いだ義清の右頬部分を切り裂いていた。
義清は不幸だった。
渾身の斬撃を与えた反動と船酔いにより、不覚にもよろめいてしまったのである。
そこへ盛嗣の切っ先が顔面にやってきた。
「うぐっ。」
さすがの義清もうつ伏せに船に伏してしまった。
その突っ伏したところを、我に返った盛嗣に首を取られてしまったのである。
他の源氏の大将格も多くが討ち取られた。
海野幸広は、村田盛房と壮絶な格闘を演じたが、最後は藤原景家に討ち取られた。
高梨高信は、危地に陥っていた義清を助けようと、10数名の部下とともに小舟に乗り救援に向かっていたところを、平教経の矢により落命した。
義長も、義清が討ち取られたのちも激闘したが、力尽きて討死した。
高梨高直は小舟に乗り移り、なんとか血路を開き脱出し、残兵をまとめて抵抗を行った。
しかし、平家は兵船に馬も載せており、それらが大挙して押し寄せたため、高直は支えきれずついには備前方面に落ちて行った。
源氏の損害は、相手に与えた首級だけで千2百、海に転落して溺死したもの数知れず、負傷等も加えるとまさに壊滅と言っていい惨状だった。
平家の損害は、微々たるものと言っていい。
まさに平家の快勝だった。
久々の勝利に平家方は沸き立ち
「この勢いを持って、京を奪還すべし。」
と、重衡は高らかに叫んだ。